株式会社マルス海外進出支援コンサルティング代表、
フィナンシャル・アドバイザー。
フィリピン在住FPとして、youtubeや複数のwebサイトで
日本人のマネーリテラシー向上のための情報を日々発信中。
著書に「Helloしか言えない超英語初心者」
「実現可能な最高の仕事がしたいあなたに映画をお勧めする理由」など。
フィリピン在住の40代男性、独身。
なぜか祖先にロシア人がいます。
4つ下に妹が一人。
東京と秋田のハーフ(笑)。
板橋区成増で生まれ、3歳から隣の和光市で育ちました。
その他、今まで長く住んだ場所は
埼玉の久喜市・富士見市・川越市、
群馬県高崎市、横浜市鶴見区、フィリピンのマニラとセブ。
早大卒業後、
東京・霞が関の大手監査法人に勤務。
金融業界のコンサルなど実務経験でお金の知識を習得し、
海外不動産投資、長期積立投資で実践を重ねました。
20代半ばでダイレクトマーケティングを始め、その後独立。
様々な挫折を経験する中で情報発信ビジネスと出会い、
現在はそれを手段にフィリピン移住のための投資コンサルなど
事業を展開しています。
肩書は「フィリピン移住と投資の専門家」。
フィリピンなど新興国の海外投資、またアメリカやヨーロッパなど
海外の不動産や証券投資に詳しくコネクションも有しています。
フィリピンで女性に騙されたりテロリストに殺されかけるなど
普通の日本人にない修羅場をくぐった経験から、
フィリピン移住を考えている日本人にアドバイスを続けています。
実績としては、
個人メディアの運営。
例えば、1万人を超える
読者さんを持つメルマガ
月間アクセス20万PV以上の情報発信ブログ
月間アクセス90万PV以上のGoogle Adsense
(グーグルアドセンス)ブログ。
大手eラーニングサービスにて、
ビジネス情報分野のネット講座講師を担当。
オンラインコンサルの経験7年以上、延べ1,500人(ジャンボジェット3機分)
以上にコンサル指導を行い、多くの成果を上げています。
プライベートではヴォーカリストでありベーシスト。
FM「DISCOVERY JAPAN」「ヒデオのRADIO」
「TAKA江川のお茶でも飲もう」に出演。
海外生活やWebマーケティング、海外投資、
音楽について語りました。
趣味は、世界中のあちこちで
マッサージを受けること(笑)。
その他、キャンプ(焚き火)と
ハーレーダビッドソン(ウルトラクラシック)は
ライフワーク。
信念
「自分に嘘をつかない」
「例え身内でも、会いたくない人とは会わない」
「嫌いなことは意識して避ける
(人混みや待つこと、決まった時間に働くなど)」
「時間を忘れるほど大好きな仕事をしたい」
「次の人生のために、
今日より明日1ミリでも成長する」
愛読書は、飯田先生の『生きがいの創造』。
今回の人生の役割を忘れないために
何度も繰り返し読み続けています。
どうしようもなくダサかった自分が
変わるきっかけをくれた先輩のエピソードを話します。
行動力がありアクティブなイメージが周りには
定着していますが(笑)、
子供の頃は、親の陰に隠れて
お冷も頼めないほど、人見知りで小心者だった僕。
学生生活を通してそれなりの人付き合いには
慣れましたが、どこか上っ面で薄っぺらい自分の
人への接し方に、自分で嫌気がさしていました。
そんな中、自分で起業してから、
義理のイトコを通して知り合ったFさん。
ドライに言えば、同業なのでライバル関係。
何の利害関係もない中で、同じ大学の先輩だった彼は
僕のことを気に入ってくれ、よく食事に連れ出してくれていました。
ある日、いつもの大泉のサンロイヤルで
ハンバーグを食べながら、僕が言いました。
「Fさん、俺もう
このビジネスやめようと思ってます。」
「え!なんで?」
「・・・・・」
「いや・・成功したらすごいのは分かるんですけど、
チームのみんなが勝手すぎて・・・もう嫌に
なっちゃいました。
別にこれだけじゃないし、
他の道もあるかなって。
Fさんチームの仲間は
これからも応援していくので、
Fさんがんばってくださいね!」
「・・・・・」
まるで熊のプーさんにメガネをかけたような
穏やかな彼の顔が、豹変していました。
「なんでこんなに・・・
どうして僕ばかり・・・
しょせん、オレなんか・・・
甘えんじゃねぇ。
悩んでいる自分に酔ってんじゃねぇよ。
悩んでいるおセンチさん。
悩んでいる自分ってかっこいいもんね。
おれは、本当はやりきりたいのに、
いろいろな壁があって、悩んでいる・・・
志はあるのに、
なかなか達成できずに悩む自分・・・
かっこいい・・・
あぁぁ、俺ってかっこいい・・・
馬鹿じゃないの?
悩んでおセンチになっていいのは、
中学生が女教師に惚れちゃって、
好きなのに告白できない・・・
そんなときだけでいいんだよ。
今、自分が悩んでいることは、
うだうだ悩んでかっこつけてていいのか、
それとも、結果から逆算して、
とにかく行動し、
結果をつかみ取るべきことなのか、
どっちかしかねえんだ。
悩んでいるおセンチさん?
甘えてんじゃねぇ。」
呆然とするぼくに、彼は続けました。
「お前、ふざけんなよ。
人間関係がうまくいかないから、あきらめるって?
ダサすぎる。
チャレンジして勝てないのはダサくない。
一番びびってんのは、チャレンジしてできない自分を
受け入れちゃうことだろ?
いま受け入れなよ、おもいっきり。
誰もとめないから。
ダサいよ。ダサすぎる。」
「今まで信じていた、オレがバカだったわ。」
いつも優しくて紳士的な彼は、
紅潮した顔で
そのまま席を後にしました。
その後、何時間も、
一人でそのまま座っていました。
なんか情けなくて、
自分のダサさを思い知らされて、
レストランのはじっこで
一人で男泣きしていました。
後で聞いたら、
Fさんは僕のいないところで
いつも僕を自慢し、彼は絶対達成できる!
って、信じてくれていたらしいです。
自己嫌悪の極致でした。
彼の信頼を裏切ったその日から、
ダサい自分に
決別することをかたく誓いました。
マザコンの変貌
実は、もともとオヤジが嫌いでした。
物心ついた時から、
オヤジには女がいました。
そう、母ちゃんにいつも
悲しい思い、寂しい思いを
させていたのを知っていたから。
マザコンが変わりたかった理由
服飾デザイナーをしていた父は、
1947年生まれにして
178cmの長身と締まった身体。
洗練されたファッションに身を包み、
また女性の多い
華やかな業界の中にあって
その恵まれた容姿と才能で
相当モテる存在だったそうです。
子供ながらに、
いつも怒鳴り合いの
夫婦ゲンカをしていたのを覚えています。
洗濯物から
女性のパンティが出てきたり。
女から電話がかかってきたり。
ゴムを持って
週末に出かけて行ったり。
謎の連泊が続いたり。
年末にいつも独りで
豊橋に行くのが謎だったり。
たいていは、
オヤジの浮気のことで
喧嘩が勃発していたようです。
僕の記憶では、
40年もの間オヤジには
別の女がいたことになります。
「オヤジは母ちゃんを幸せにしていない」
そんなふうにずっと思っていました。
母ちゃんを、幸せにしたい。
自分が幸せになりたい以上に、
僕を突き動かすものです。
合格発表の日の、あるエピソード
家に帰らないことが多い
オヤジだったので、
ほとんど母子家庭のような
環境で育てられた僕。
そんな中、何度か母の
本当の愛情に触れた機会がありました。
高校3年の終わり、
大学受験。
いくつかの私立大学を受け、
一番行きたかった早稲田の
合格発表を一人で見に行きました。
早稲田は
付属の高校に落ちてから、
必ず来てやるぞと誓っていた大学でした。
「合格」
やった・・・!
思わず、小さくガッツポーズ。
高校3年の1年間は予備校に通わず
自分でやりきると決めていたので、
やり遂げた感がこみ上げてきました。
母ちゃんは、
受験勉強の間
一度たりとも
「成績はどぉ?」
「大丈夫そう?」
なんて聞いてくることはありませんでした。
遠慮しているのか、
興味がないのか。
そのどちらかだと思っていました。
それでも一応、
報告しておこうと思い
電話ボックスから自宅に電話をしました。
「はい?
ああ、あんたか」
「かあちゃん?
受かったよ、早稲田。
やっとリベンジ果たせたよ!」
・・・・・・
・・・・・・
「かあちゃん?」
応答がありません。
・・・・・・
よく聴くと、
小さくむせび泣く声が
聞こえてきました。
母ちゃんが、
電話口で泣いていました。
母の愛情を、
この時思い知りました。
信じてくれていたんだ。
成績なんて聞いてこなかったけど、
ひたすら僕の合格を
信じてくれていたんだね。
嬉しかったです。
そうだよ。
きっと、この時だけじゃない。
今は消えた胸のアザも、
3歳のとき頭が割れて死にかけた事故も、
七五三でうんこを漏らしたときも、
しょっちゅう風邪を引いていた時も、
公園で飛び降りてケガした時も、
友達とケンカして泣いていた時も、
高校の入学検診で不整脈が出た時も、
バイクの免許を取ると言った時も、
大学で単位がアブなかった時も、
年1回の国家試験で毎年
いい報告ができなかった時も、
失恋した時も、
海外でビジネスを始めると言った時も、
移住すると決めた時も、
人間関係で行き詰まった時も・・・
小さなことから
大きなことまで、
きっとたくさん心配してくれて、
気にかけてくれたんだろう。
この人をもっと
笑顔にするためにがんばろう。
オヤジができないなら、
僕が母ちゃんを幸せにしよう。
自他ともに認める
マザコンの僕はその時、
強くそう思いました。
どうしても変わりたかった理由
中学2年のほぼ1年間は、地獄のような日々でした。
実は、中学一年の終わりに、
地元のデパートで万引きで捕まり
補導されたことがあります。
同じ小学校からの同級生が
当時流行のヤンキーになり・・・
中途半端につるんでいたことで
彼の万引きに付き合うようになって、
その度合いは回を重ねるごとに
エスカレートしていったんです。
どう見ても中学生が来たら
浮いてしまうような売り物のコートを羽織って
そのままお店から出て行ったり、
文房具やビデオテープを
わしづかみでゴソッと持って行ったり。
そう、だんだん手口が
大胆になっていきました。
そのデパートのお菓子売り場で、
突然おばさんに腕を強くつかまれ、
持っていたお菓子の袋で何度も叩かれました。
一緒にやっていた友達も、
他の覆面パトロールにつかまって
泣きそうな顔で事務室に座らされていたのを
今でも鮮明に覚えています。
交番でしぼられ、
オヤジが迎えに来たときの
情けない気持ちと言ったら・・・
何より
大好きな母ちゃんをガッカリさせたことが、
僕を一番自己嫌悪にさせました。
後日、何かの拍子でそのことを
他の誰かに話してしまい、
それがワル仲間に伝わってしまったんです。
まるでマンガのように
体育館裏で腹や顔を殴られ、
その翌日から
仲のよかった友達が僕のことを無視し始めました。
ときには遠くからののしりの言葉が。
関係のない人まで無視するようになり、
ほぼクラス全員がそんな態度に思え
毎日登校するのが苦痛に変わりました。
自業自得かもしれませんが、
初めて人生の孤独を味わった瞬間でした。
休み時間は上の階の空いた教室の黒板に、
卒業までの残り日数をひたすら刻み、
とにかく早く時が過ぎるだけを待ちました。
そう、永遠に思えるような長い1年。
母ちゃんに心配させたくないから、
リンチや無視のことは言わず
いつも笑顔で帰宅し
普通に家で過ごしていました。
しかし、子供を心から愛する親の目は
ごまかすことはできません。
早いうちから様子の変化に気づき、
学校の担任や周囲に
そっと相談していたそうです。
そういえば、いつの間にか
朝、家から玄関に出て見送り、
見えなくなるまで立っているのが
習慣になっていましたね。
まるでドラマのような・・・
大学一年の頃から地元でやっていた、
メーカー直営のゲームセンターでのアルバイト。
早番だった自分が終礼でいつも対面していた、
ちょっと気になる遅番の女の子がいました。
ぽっちゃりで寄り目が特徴的な
Mちゃんです。
社員の企画した飲み会で
遅番と飲むようになり、
同い年のこともあってか
意気投合して彼女と付き合うようになりました。
ほぼ付き合いスタートと同時に
会計士の受験勉強を始めたことで、
彼女とのデートは
大学と専門学校とバイトの間の、
わずかな時間でした。
それでもいろんなところに出かけ、
お金がないながらも
純粋な恋愛を楽しんでいました。
20歳で初恋、
しかも童貞喪失の相手。
真剣にこの人と結婚するんだろうな
と思っていました。
「生理が来ない」
そう言われた時も・・・
悩むより先に、この子の子供が見たいと
思いました。
一次試験は突破するものの、
なかなか最終合格の朗報を伝えられず、
悔しい思いばかり。
そんな3年が過ぎたある日、
ささいなことから喧嘩をしたんです。
最終試験が3ヵ月後に
迫っていたこともあったので、
今は試験に集中して
全て終わった後に謝りに行こう。
そう思い、ひたすら
ラストスパートに打ち込んだ夏。
試験が終わった8月。
何度電話をしても出ないので、
彼女のマンションにスクーターで向かい
合鍵で部屋に。
暗闇の中、何かが動く気配。
「寝てるの?」
ライトをつけると、
裸の人間が2人重なっていました。
背中に嫌な汗が流れ、
頭が真っ白になり
そこから先は、
正直あまり覚えていません。
マンションの前に止めた
スクーターに乗り込もうとしたとき、
ほぼ下着姿のMちゃんが来ました。
「友達でいてくれる?」
「無理でしょ・・・」
言いながらぼんやり顔を上げると、
後ろのほうで僕をにらむ若い男。
どちらを責める気にもなれない。
もうどうでもいい。
正直、そんな気持ち。
「この子をよろしくね!」
そう男に伝えた後の記憶も
あまりないのですが、
いつの間にか、僕らとよく一緒に遊んでくれた
先輩のYさんのアパートに立ち寄っていました。
いつものアパートのドアを叩くと、
見知らぬどっかのおっさんが出てきます。
「引っ越したのかな?」
そう思ったとたん
「DANくん!」
隣のドアからYさんが顔を覗かせていました。
「だいじょうぶ?」
僕の尋常じゃない様子に気づき、
すぐに中に入れてくれ
コーヒーを出してくれました。
顔面が蒼白だったらしいです。
彼と彼女のNちゃんは、その夏中
よく泊めてくれたり、
プールや飲みに
何度も連れて行ってくれました。
後からこみ上げてくる悔しさや悲しみは、
彼らのおかげで何倍もやわらぎました。
中学でのつらい1年。
大好きだった初恋の人に裏切られた過去。
どちらも、自分をちゃんと
アピールできなかったことや、
僕の魅力が足りなかったことが
原因のように思えてならなかったです。
「自分を磨いて、
人としての魅力を上げたい」
こんな思いが、
いろんな経験を通して強くなっていきました。
なぜ海外移住しようと思ったのか?
フィリピンをきっかけに海外の開放的な空気にハマったこと、
インターネットビジネスを知って
「場所を問わない収入」が得られるようになり、
また投資スキルを身につけたので
日本を離れることが可能になったためです。
海外移住に至った経緯を簡単にお話しします。
あまり海外に興味がなかった過去
「夏休みはヨーロッパに行ってたよ。
最高だった・・・
お前は今まで海外は?」
高二のくせに夏休みにヨーロッパ旅行に行ったという
同級生の井口が、休み明けの教室で開口一番に語ったこと。
フィンランド人女性と
楽しい思い出をつくったとか(笑)。
海外に住んだり仕事で飛び回ったりと
今は海外が当たり前なのに、数十年前はそれほど興味がありませんでした。
なかったというより、他のものへの興味が
優先していたということです。
高校卒業の春に中型の免許を取ってからバイクに
どっぷりハマったので、必然的に国内が遊びの中心になっていました。
ハリウッド映画は小学生の頃から大好きでしたし、勤めていた
監査法人でも外国人が普通にフロアを歩いている環境だったので、
刺激されなかったわけはありませんが・・
これという動機付けに欠けていたんです。
海外とつながる機会
そんな中、自分のビジネスの先輩Sさんから、
インドでビジネスを始めないかというお話を頂きました。
海外ビジネスのチャンス到来です。
初めての海外にワクワクしながらも、そういえば
英語からは数十年ずっと離れていました。
言葉のできない不安はそのまま、
海外への不安に。
ふとどこかで知った、オンライン英会話の存在。
今は当たり前のそれが、当時はまだ珍しかった頃。
迷わず申し込みました。
初めてのクラスのフィリピン人男性講師は日本語が流暢で、
その授業は日本語だけで終わったのを覚えています(笑)。
もともと言語能力に長け、アメリカ人も認めるほどの
英語力を持つフィリピン人達。
彼らと毎日会話を交わすうちに英語のカンを取り戻し、
英語で話すことが日常に変わりました。
初めての海外という衝撃
初海外がインドという人は、
日本人でも極めて稀でしょう(笑)。
その衝撃といったら・・・
インドの空港はうんこの匂いがすると聞いていましたが、
もちろん都市伝説でした(笑)。
着いた首都ニューデリーの国際空港は、
整備された近代的な施設。
狂犬病が普通にあるといわれていたので、空港の近くに
横たわる野良犬におびえながら移動用のバスに。
渋滞のそのカオスさに脳内破壊状態。
窓から見える初めての日本以外の光景は、全てが新鮮でした。
そして何よりも衝撃だったのは
自分の英語があまりに通じなかったことと、
早口で巻き舌、おまけに強いアクセントの
インド英語がほとんど聴き取れなかったこと。
自信喪失するも、後にそれが何よりも強い英会話マスターへの
モチベーションとなったことは言うまでもありません。
その後、国内のビジネスパートナー数名が一緒に
海外ビジネスをやりたいと仲間に加わってくれました。
しかし、家族を始めその周囲の反対が。
やはりほとんどの人は、日本が一番安全で快適だと
思い込んでいるそうです。
理解を得るために、相当の骨を折ることに。
初のフィリピン渡航。ほとんどやみつきに
あるきっかけで、ついにフィリピンでも
ビジネスを展開することになり、その手続きのために現地マニラへ。
インドと異なり、すでに友達になっている人たちが向こうにいるため
ワクワクしながら旅路につきます。
期待を裏切られることはなく、楽しすぎる
現地の滞在はあっという間に過ぎました。
とにかく明るくて元気がもらえる
この南国のとりこに。
同時に、初めて来たのになんとなく
懐かしさのようなもの・・・
何かの縁を感じました。
フィリピン3回目にして一人で移住
ちょっとフィリピンのビジネスを集中的に伸ばそうということで、
3回目の渡航は3ヶ月強の長期滞在と決めます。
コンドミニアムを借りて滞在したのは、
悪名高いマラテ地区。
ビジネスパートナーのオフィスのあるマカティに
そう遠くないということで選んだこの地区は、東南アジアの中でも
ひときわ物騒な場所だと後で知りました。
とはいうものの、南国の暖かい気候。やさしい人々。
美味しいフルーツ・・・その滞在は手放しに楽しかったです。
現地での危ない体験については以下のページで語っています。
インターネットビジネスが軌道に乗ったこと、
現地に友達やパートナーができたこともあり
日本を離れて生活拠点をフィリピンに移すことに決め、
今に至っています。
いろんなきっかけをもらったおかげで、そして行動に移してみて
日本以外に住むという選択肢が拡がり、それを楽しんでいます。
これからはますますボーダーレス化が広がり、
海外に住むことがもっと当たり前に。
それを最短距離で可能にできる手段を持っている以上、
何らかの役割をもらっているんだと感じます。
一緒に、海外で自由に遊べる仲間を増やしたい。
それは、お金では得られないもの。
ちょっと先の未来に、ワクワクしています。
何のためにこのブログを書いているのか?
「投資が海外移住を可能にする最良の手段」
だと気づいたから。
そしてこの手段なら初心者でも、また老若男女問わず始められ
努力次第でモノにできるとはっきり分かったから、
僕の失敗や経験を活かして
海外移住の具体的なお手伝いができると考えました。
このブログは、そのための情報発信基地。
詳細なノウハウについては、順番通り丁寧にお伝えするため
ニュースレターの中で語っています。
ただ、最初から投資のすごさが
見抜けたわけではありません。
そこに至るまでにはやはり、きっかけがありました。
あの本に出会ってから、すべてが変わった
埼玉の公立中学を卒業し、
都内の私立高校・大学を卒業。
どこにでもあるありふれた学歴だが、僕には
あまり多くの人にはない経験があります。
小学校6年の時に父が起業し、数ヶ月で倒産という
憂き目に遭い、それを目の当たりにしています。
自分の会社を持つ、人を雇って動かす、
社長と呼ばれる・・・
「かっこいい」
小学生ながらに、そう思いました。
なんとなくですが、将来は自分も会社をやってみたい。
そう思ったのを覚えています。
しかし後に母ちゃんから聞いた、会社の身内の裏切り。
債権者からの深夜の脅迫まがいの電話・・・
会社をやるって怖いんだと、同時に印象付けられました。
その後の父は借金返済のために、
元いた職場に復帰・複数の業務の掛け持ち・
全く畑違いの転職(服飾デザイナーだったのに建築業を始めた)など、
身を粉にして働きました。
リスクの少ない起業はありえるのか?
いろいろな苦労を見ながら、独立はしたいが
リスクは冒したくない・・・
確実な起業の方法はないものかといろいろ模索するうち、
公認会計士という仕事が存在することを知ります。
社会からの需要が高く、報酬も高いと。
いわゆる士業として守られた中で独立すれば、
普通に起業するよりも安定して成功できるんじゃないか?
さっそく資料を取り寄せます。
かくして大学3年生から
ダブルスクールを始めるものの・・・
そこは国家資格最難関の一つといわれる、公認会計士二次試験。
簡単に通らせてくれるはずがありません。
もはや当初の野心は先細り、忍耐だけで続けていた
数年の受験生活にいったんピリオドを打ち、
そこで得た知識を活かす形で監査法人に就職。
遅咲きの社会人生活をスタートすることに。
働きながら、また受験しよう・・・
そんな想いで仕事をしながら、実際の会計士達と接しているうち
ある衝撃的な事実を耳にします。
「会計士になっても独立しない人がほとんどだよ。
知らないの?
大きいクライアントは監査法人が持ってるから、
独立しても稼ぐのは難しいよ」
さらに追い討ちをかけるように
「監査法人にいても、いろんな肩書きを掛け持ったりしないと、
マネージャークラスになるのも大変なんだよね・・・」
資格を取っても独立できない?
サラリーもそれほど上がらない?
これじゃ、普通のサラリーマンと変わらないじゃないか・・
打ちひしがれていたある日。
数ヶ月前から副業を始めていた母ちゃんが、どこかで
借りてきた本をリビングに置きっぱなしにしていました。
当時ベストセラーになりつつあった、本田健さんの
『ユダヤ人大富豪の教え』。
「幸せなお金持ち」というサブタイトルに惹かれました。
お金を稼ぐことやお金持ちになることに少し
ネガティブな印象を植えつけられている日本人。
自分もその例外じゃなかったから、
「幸せなお金持ち」に違和感を覚えました。
そして、読み進むうちに衝撃の内容に出会うことに。
働く人を
「経済的自由人」と「経済的不自由人」
に分けていたそのページ。
お金持ちになれると思って目指した公認会計士が・・・
「経済的不自由人」に名指しで書かれていました(笑)。
なぜ?
その本やその後の出会いから学ぶうち、
自由人というのは
経済的自由
時間的自由
人間関係の自由
のバランスの取れている人なんだと気づきます。
そう、幸せなお金持ちは、この
全ての自由を同時に手に入れた人なんだと。
日本にはあまりいないタイプの成功者です。
個人事業の進め方を学ぶセミナーの中で、
元経営コンサルタントの韓国人
Jさんの話を聴きました。
その中の、
彼の言葉は今でも耳に残っています。
「自分がビジネスを始めたのは、
「時間が欲しかった」からです。
正直、コンサルの仕事はやりがいもあり
給料も良かった。
でも、自分の時間はゼロでした。
このままスルスル時間が進んでいったら
10年後、20年後「ゼッタイ後悔する」
と思ったんですね。
人生とは時間そのものですから」
やはり時間と収入の両方が大切。
お金だけでなく、自分や家族との時間が得られる
ビジネスを選ぼう・・・
そう決めた瞬間でした。
自由人になるために
母ちゃんの個人事業が、その本で「経済的自由人」
になれる手段として挙げられていたことや、
母ちゃんに協力したいという想いもあり、
監査法人勤務を続けながら
僕もその事業を手伝うことにしました。
セミナーで学んだことを実践し、失敗し、小さく前進する。
トライアンドエラーを続けた数年後、
最初の目標を達成。
まだまだビジネスは序盤ながらも、
歓喜に満ちた瞬間をひととき味わいました。
しかし・・・
数々の試練・仲間との出会い
そこから、道は大きく開けているかに見えたが、
その業界はそれほど甘くはありませんでした。
数々の身近な反対者や足を引っ張る人間が次々と
立ちはだかり、ビジネスは思うように進みません。
悶々とする毎日。
その中でも、一生付き合うことになるであろう
本物の仲間と出会うことができたのは幸いでしたが。
数え切れない失敗。
小さな喜びをバネに、なんとか前に進もうとする日々。
とにかく、多くのことを学ばされた時期でした。
自分のビジネス仲間を通じて知り合ったある女性。
一緒に仕事の現場を踏むうちに、交際するように。
やがて同棲し、結婚。
しかし、悲しい別れがやってくる。
息子との死別。
結婚生活はうまくいかなくなり、別居。離婚。
まるで地獄のような・・・
人生で、最も苦しかった時期。
その間、当然のごとく自分のビジネスは停滞します。
先の見えない日々・・・
進むしかない
それでも、時間が解決しないことはないんだと知ります。
同時に、自分の本当の強さも。
生きている以上前に進むしかないんだと気づいた時、
少しづつ目の前が開けてきました。
同時に、あの苦しかった出来事、あの地獄の日々が、
当たり前の日常を全て感謝できる奇跡に変えてくれました。
ビジネスをもう一度だけ
がんばろうと決意し、立ち上がります。
そこから、新しいチャンス、仲間との出会いを
どんどん引き寄せることに。
海外事業のチャンスが到来し、アジアで伸びているインド、
フィリピンでのビジネス展開を始めます。
がんばること数年。
フィリピン人のビジネスパートナーが仲間と自分の
ビジネスの最初の目標を達成し、一つの形にしました。
何しろ、自分が達成した時より嬉しかったです。
男泣きするほどに。
新たな事業展開のチャンス
人はワクワクしている時、
さらに良いものを引き寄せるといいます。
実体験としてそれを理解しました。
ある時、情報発信ビジネスと海外投資で
大きな結果を出している人と出会います。
人としても尊敬でき、いろいろなことを学ばせてもらえる男性。
教えを請うことになり、さっそく自分も情報発信と投資をスタート。
さらに大きなチャンスを得ることができました。
PCとインターネット環境さえあれば
世界のどこでも収入が得られる、自由度の高い手段。
この情報発信と投資なら、時間・お金・人間関係の自由だけでなく
場所の自由まで手にできる。
これを始めたことで、いよいよ
海外に自由に住むことができる条件が整いました。
そして実際に海外に移住してからも、
収入が途絶えないことを証明できました。
これはインターネット時代の恩恵以外の
なにものでもありません。
投資の重要性を日本人に向けて発信
投資を勉強するようになって
以下のことを知ってからは、投資に対する意識が変わりました。
日本の常識
世界の常識
感情や聞きかじりの情報ではなく、こうしたデータに基づいて
冷静に投資を続けることを心掛けていますし、
それをコンサル生さんにもお伝えしています。
ブログでは語れないことをニュースレターで発信
かつての僕は、こんな勘違いをしていました。
■場所を問わない自分の収入
■ある程度の英会話力
■海外で不安のない健康な体
■現地の情報
■外国人との恋愛のコツ
■パートナー以外の楽しい仲間
が必要であるという前提に立ち、
投資の正しい知識
英会話の習得法
健康に関する情報
フィリピン移住情報
外国人との恋愛のノウハウ
イベント情報
といったことも、ニュースレターで
惜しみなくお伝えしていきます。